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歴史ドラマ

西南戦争熊本城籠城戦


「谷干城」の銅像の画像

高橋公園にある「谷干城(たにたてき)」の銅像


熊本城が不落の名城ということを名実ともに実証。

明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、薩軍(さつぐん)が北上を始めます。かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)は前日の14日に籠城を決意します。

前年10月の神風連の乱(しんぷうれんのらん)から未だ鎮台兵の士気が回復していないことや、県下の士族には薩摩と気脈を通ずる者が多く、また兵力が圧倒的に少なかったからです。

籠城が決まると食料・薪炭等を備蓄し、橋を撤去したり、通路を塞ぎ、地雷を埋め、更には「射界の清掃」のために市中に火を放ちました。開戦前に城下は焼土と化したのです。

市中放火とほぼ同時刻、天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまいます。原因にはいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。

城内には歩兵第13連隊を中心に、3500人が守りにつき、かたや薩軍は13000人が鹿児島を進発していました。

2月21日に城下に入った薩軍に対し、竹の丸、飯田丸(いいだまる)の砲台が砲撃を加えましたが、薩軍は応じず、小競り合いに終わりました。

翌22日午前7時薩軍は総攻撃を始め、城の四方から攻めたものの、攻めあぐね、城内に入ることはできません。23日、24日も同じように激戦が繰り広げられます。最も戦闘が激しかったのが城の西端にある段山方面で、13連隊長の与倉知実(よくらともざね)はここで重傷を負いやがて死亡。また、藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)もこのとき焼失してしまいました。

3日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を進めたのでした。

3月19日、陸軍中将黒田清隆(くろだきよたか)率いる衝背軍が八代方面に上陸、熊本城を目指し北上を始めます。翌20日には田原坂が陥落。薩軍も必死に抵抗しますが、ついに4月14日衝背軍が薩軍の囲みを解き熊本城に入城、52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を名実ともに実証したのでした。

西郷は終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白したとまことしやかに今も伝えられています。

熊本城周辺には西南戦争にまつわる史跡が多く残されています。明治の武人を偲んで熊本城域を散策するのもまた一興ですよ。


西南の役回顧之碑の画像

行幸坂入り口にある「西南の役回顧之碑」


西南の役籠城将校婦女子避難所之跡の画像

二の丸公園にある「西南の役籠城将校婦女子避難所之跡」


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