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歴史ドラマ

加藤清正(かとうきよまさ)


行幸橋(みゆきばし)にある清正公銅像の画像

行幸橋(みゆきばし)にある清正公銅像


清正の善政の功績は、今なお市民に慕われています。

永禄5年(1562年)6月24日尾張国(おわりのくに)生まれで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もあります。幼名を夜叉丸(やしゃまる)といい、9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗りました。

初陣がいつかは明らかではありませんが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てました。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、いっきに肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。清正27歳のときでした。前年に佐々成政(さっさなりまさ)が肥後統治に失敗した後を受けたものでした。入国当時の肥後は国衆(こくしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていました。当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残しているほどです。

入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。今でも熊本では善政の事跡は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるのです。

文禄・慶長の役では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では、石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らとの確執から東軍につき、小西滅亡後は肥後南半国も領して、実質ともに54万石の大大名となります。関ヶ原で東軍についたとはいえ、豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城(にじょうじょう)で秀吉の遺児秀頼(ひでより)と徳川家康(とくがわいえやす)を会見させることに成功しました。

これで豊臣家も安泰と思われたのですが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなりました。享年50歳。奇しくも生まれた日と同じ6月24日でした。豊臣家も清正の没後わずか4年で大坂夏の陣に破れてしまいます。

加藤家の菩提寺本妙寺(ほんみょうじ)では、毎年清正の命日(新暦7月23日~24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行なわれ多くの参拝客で賑わいます。


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